日別アーカイブ: 2013年5月17日

自分考察 生きるということ

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先日ご紹介した、これですが・・・

結構意外なくらいに使えております。MP3プレーヤー画像

想像していたよりずっと小さいものでした。参考に10円玉を置いてみましたが、こんなもんなんですね。おっさんなので、頭に浮かぶイメージでは、iPodではなくウォークマンの大きさをベースにしていたようです・・・

これだけ小さいながらも、いや安いながらも、一応再生のスキップとレジューム機能はあるので、私には十分です。秒単位の早送り・巻き戻しが出来れば言うこと無い所ですが、出来るのかな?
それはまぁいいでしょう。

とにかくクリップついたMP3プレーヤーってのがポイントで、Tシャツなんかにでも付けることが出来ます。それこそ下着姿で茶碗洗ったり洗濯物干したりするときなんかでも使えるので、とても便利だし気楽です。
って、何か家事の合間ばかり引き合いに出していますね(笑)。
通勤時とか散歩とか、「会話せずに過ごしている時間」を聞く時間に充てることが出来るってのが、これほど便利だとは思いませんでした。

実際使ってみるとね、「聞いていられる時間」が長いんですよ。なんか、いろいろ中断しそうな気がするじゃないですか。誰かとしゃべったりとか、話しかけられたりとか・・・

結構長時間いけちゃうんです。意外でした。
ただ人と会うときには、相手方の印象が悪くなる可能性が高いので、それが気になる人はそういった場面では使えないかもしれませんが・・・コンビニで買物とかするとき、つけたままで出来るかどうかは人によるのかもしれません。

あとは、「ちょっと!聞いてるの!?」とかっていう小言も増えるかもしれませんね。
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最近フェイスブックで昔馴染みと繋がる機会が増えました。大学時代の旧友なんですが、まぁ多くは「友達」ってよりも「知り合い」レベルなんですけどね。昔も今も、人付き合いは限りなく苦手なので、友達ってほんとに少ないです。
それはそれで気楽ですが、反面寂しくも感じます。勝手なものですが。

私が卒業した大学、「はり師」「きゅう師」の免許を取得できる4年制大学で、当時はとても珍しい形態でした。1学年100人ちょい程度の生徒数でしたが、それこそ北は北海道から南は沖縄まで、全国から生徒が集まってきたものです。

そんな大学を卒業した旧友たちが、今何をやっているか?ってのをかなりリアルに知ることが出来たんですがね。
さすがにほとんどが「鍼灸業」でした。そりゃそうですよ。「はり師」「きゅう師」の資格をとる学校を卒業しているんだもん。

みんな立派に「先生」やってるなぁ~って、素直に感心しましたよ。

じゃあそんな学校卒業しておきながら、それを生業にしていないのはなんでだ?・・・まぁ私のことですが。

そういえば前のブログでそんなことを多少書いた記憶もありますが、そのときはあまり突っ込んで振り返っていなかったんですよねぇ・・・あったあった、こんな感じでした

自慢じゃないですが、私はとても考えの浅い人間だったと思います。いや、それは今でもそうかもしれません。なのでその浅い考えを改めようと、こんな年になってジタバタしておりますが、それば別の話ですね。
何が浅いって、自分の人生というものをとても軽く考えていた、という意味においてです。

自分の人生なんて、たいしたものじゃない。
よくそういう風に言う人居ますが、それともまたちょっと違うんですよね。

「どの選択肢を選んでも、大して変わらない。」

多分こういう風に考えていたと思います。今更当時の自分がどういう考えだったか鮮明に覚えているはずも無く、いろいろ想像した結果なので・・・「多分」です。

ちょっと変ですよね?普通に考えれば、変わらないわけは無いじゃないですか。それこそ、先日の選挙の話じゃありませんが、自分一人が影響を与えられる範囲なんてたかが知れている、ということじゃあないんです。

人生って、選択の連続です。ひとつひとつの選択がその人を形づくっていくし、その後の人生を左右するのは当たり前じゃないですか。
その選択に「意味が無い」って考えていたってことなんです。

よい風にとらえれば・・・「生きているだけで人生ってすばらしい。だからどんな道筋を選んだ人生だって、同じ位に価値がある。」なんてことも言えるかもしれません。
でもこれ、大前提に「懸命に生きている」とか「真剣に取り組んでいる」とか「十分悩んだ選択」とかってものが必要なんです。

それに気付くのが、またずいぶん遅くなってしまいました。

こういう風に考えるようになった理由・・・多分小学生時代にいじめにあったせいだと思います。
毎日毎日、特定のクラスメイトの執拗な嫌がらせと大多数のクラスメイトの無視が続き、登校拒否にもなって・・・自殺を考えたこともあるし、相手を殺そうと思ったことだってあるし、絶望的な日々でした。

今でも当時のことを思い出すと、断片的ですが強烈な感情が沸き起こります。幸運にも私の場合、両親はじめいろいろな人の支援や協力があり、なんとかその状態を脱することが出来ましたが、2年ほどかかりました。

この期間を乗り切るために、身に付けざるを得なかった手段、いろいろあります。
喜怒哀楽の感情を抑制したり、擬態したり・・・何かに過度に期待することも無くなりましたし、根っこの部分では真剣に考えることも無くなりました。
まぁ傍から見たら、「何考えているか分からない冷たい人間」に見えたと思います。

自分から進んでそうしようと思ったこともあります。
だってそのほうが楽だから。
そうしないと生きていけなかったから。

真面目に真剣に考えると、当時の自分のこと、相手のことをどうしても許せなくなってしまうじゃないですか?
だから考えるのを止めるようになっていきました。

これは他人には理解できない理屈だと分かっています。別に理解してもらおうとも思いません。
ただ、この「真剣に考えるのを止める」って生き方、当時の自分には必要不可欠でしたが、その後の人生にも大きく影響を与えることになってしまいました。

話が戻りますが、つまり大学や進路を選択するにあたって、「どうしても欲しかった資格」「行きたかった大学」「就きたかった職業」って訳ではなかったってことです。
ならもうちょっと無難な、一般的な選択肢を選べばよかったのにね、この辺りがへそ曲がりだなぁ我ながらと思います。

もちろん極論すれば、ってことですけどね。行きたくもない進路を選ぶほど、M気強くもありませんし。

ただこんな特殊な大学を選ぶ人は、ほとんどが真剣に考えた結果なんでしょう。その後の人生もぶれていない人が多いなーって感じました。

正直羨ましいです。
それだけ、これまでにいろいろと考えて、悩んで、努力してきた結果でしょうから。

反面、私はぶれぶれです。悩むべきとき、考えるべきときに労力を払わなかった結果ですね。
でもそれはそれとして、今を楽しんでいます。それも事実です。

今はね、若かりしころとはずいぶん違った意味で、「どの選択肢を選んでも、大して変わらない。」って感じています。

自分が考えて、悩んで、選んだ選択です。どんな結果が出ても真剣に受け止めて次に活かします。生活自体はその時々の環境に応じて、どんどん変わっていくかもしれませんが、生き様は変わらない。

そう思っています。brd0039-033

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